感情は押し付けるものである。

私の親しい友人が上司に少し文句を言ったようなのです。

「いま私と◯◯さんの間でこういうコミュニケーションがうまくいってないと思うので、どうにかした方がいいと思うのですが、どう思われますか」

確かこんなようなことを言ったのだったと思います。

上司からは感情を押し付けるなと注意されてしまったそうです。

 

この話を聞いて私が言いたくなったのは、「『感情を押し付けるな』と言う人は、そのように言うことによって、まさに感情を押し付けてしまっているではないか」というつまらないことではありません。

むしろ私が言いたいのは、私たち人間は感情を押し付けざるを得ない、もしくは押し付けられざるを得ない存在である、ということです。最初からできないことを義務として課すことはできないので、感情を押し付けるなという命令は、「今日中に月まで行って帰ってこい」という指示と同じく、無効になります。

では我々は感情をおしつけざるを得ないとは一体どういうことなのでしょうか。

拡張された身体

The extended body: A case study in the neurophenomenology of social interaction.というタイトルの論文の中の、フローゼとフックスの主張を簡単に要約すると次のようになります。

_____________

我々は人の感情を理解するときに、ある人の状態を見て、それを頭の中で思い描き、このような顔をしているということは怒っているのだななどと考えて理解しているわけではない。また、相手の状態を見て、自分がそれと似たような状態であったとしたらどんな感情状態かとシミュレーションをしているわけでもない。我々は身体で他人の感情を理解しているのである。

身体で他人の感情を理解しているとはどういうことか。それはAさんとBさんの間でのやり取りを想定すると以下のようになる。

  • Aさんが例えば怒ったとする。
  • Aさんは身体的な変化(筋肉の緊張、呼吸や心臓の鼓動の促進、声が大きくなるetc.)で持って、怒りを経験するが、その身体的な変化が一方ではBさんに対しての怒りの表現になっている。
  • BさんはAさんの怒りを目の当たりにして、それに対応するような反応をする。例えば、同じように筋肉を強張らせて声を大きくする(怒り)とか、逆に声を小さくして逃げるような格好をする(恐怖)とか。
  • そのようなBさんの反応は、今度はAさんに対しての感情の表現になっている。
  • それを受けてAさんは同様に身体的な変化をきたし、その変化がまたBさんに対する感情の表現になっている。以下、ずっと続く。

このように我々は身体的に共鳴をしあって、お互いの感情を理解しあっているのである。

_____________

 

以上です。このように共鳴しあう身体を、彼らは「拡張された身体extended body」と名付けています。

つまり、我々がある人を目の前にすると、その人と自動的に身体で共鳴するようになってしまっているということです。

共鳴=押し付け

このように自動的に共鳴してしまうことが、実は感情を押し付けられたという経験の正体なのではないでしょうか。押し付けられるということは、感情を無理やり経験させられるということでしょう。身体的な共鳴は自分の意思に関係なく起きてしまいます。そのような形で、「自分はこんな感情状態になりたくなかったのに、あなたがそんな感情を表現してきたから、こんな風になってしまったじゃないか」という怒りが、感情を押し付けられたことで生じる怒りならば、それはまさに身体的共鳴を受け入れられなかったということになるでしょう。

共鳴は仕方なく起きるもの

愚痴を聞かされるのがなぜ嫌かといえば、相手のネガティブな感情を目の当たりにして自分も自動的にネガティブになってしまうからでしょう。激昂する人がなぜ疎まれるかといえば、激昂する人を目の当たりにすると、こちらも緊張したり、妙に怒りたくなったりしてしまうからでしょう。笑顔の人を見ると、自分の意思に関係なく笑顔になりそうになります。

これは仕方のないことなのです。だから感情を押し付けるなという命令は、無意味なものと言わざるをえません。我々はそのようにできてしまっているのからです。

引用文献

Froese, T., & Fuchs, T. (2012). The extended body: A case study in the neurophenomenology of social interaction. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 11(2), 205-235. doi:10.1007/s11097-012-9254-2