【簡単な書評2】The New Science of the Mind: From Extended Mind to Embodied Phenomenology (Rowlands, 2010)

 以下の本をまとめます。また感想も書きます。

The New Science of the Mind: From Extended Mind to Embodied Phenomenology (MIT Press)

The New Science of the Mind: From Extended Mind to Embodied Phenomenology (MIT Press)

 

 

 デカルト的な認知科学

現在主流な認知科学デカルト的である。デカルトのテーゼとして①精神と物質は実体として異なっている②精神は脳内に座している、の二つが考えられる。現代の認知科学は①を否定しているが②に基づいている。この点で現代の認知科学デカルト的であると言える。

この本の目的

この本の目的は非デカルト的な認知科学の基礎となる考えを提供することである。つまり認知過程は脳内に制限されているわけではなく、身体にもそして環境にも広がる過程であると論じること。認知過程の構成要素として身体も含まれるという考えが身体化された精神(the embodied mind)、そして環境も含まれるという考えが拡張された精神(the extended mind)と呼ばれる。筆者はこの両方を合わせたものを主張していて、これを融合された精神(the amalgamated mind)と呼んでいる。

融合された精神(the amalgamated mind)への批判

身体化された精神(the embodied mind)と拡張された精神(the extended mind)への批判

  1. 脳内の神経科学的な過程と、身体および体外の過程の間には見過ごしてはならない重大な違いがあるだろう
  2. 因果関係から構成関係を推論してしまう誤謬を犯しているのではないか。例えば日光が日焼けの原因であることから、日焼けの構成要素として太陽を考えることは馬鹿げているだろう。それと同じ推論上の誤りを犯しているのではないか。
  3. 滑りやすい坂:何でもかんでも認知になってしまうのではないか。
  4. ある過程が認知だと認められるためには認知の印(the mark of the cognitive)をそれが持っていないといけないはずである。しかし身体化された精神や拡張された精神の主張者が認知の一部であるとする過程にはそれが欠けているのではないか。

Rowlands曰く、4に対して応答をして認知の印を示すことで1~3の批判にも応答することができる。ということで認知の印とは何か、を考えていく。

融合された精神(the amalgamated mind)に対する批判

  • 身体化された精神と拡張された精神を融合することはできないのではないか。後者はリベラルな機能主義に基づいているが、一方で前者はより厳格な(chauvinistic)な機能主義に基づいているからである。

→したがって、機能主義に基づかない方法で両者を融合することを考えていく。

認知の印(the mark of the cognitive)

Rowlandsは現代のデカルト的な認知科学で想定されていると思われる認知の十分条件をあげる。デカルト的な認知科学で想定されている条件を満たすような、身体的過程。環境における過程があるのだということを言いたいがため。以下の4つを合わせると十分条件になる。しかしこれにはのちの考察で若干の変更が加えられる。

ある過程が...

  1. 情報処理を含む
  2. 本来の機能として、主体もしくはその後の情報処理にある情報を利用可能にする
  3. その情報は主体の中に表象状態が生まれることで利用可能になる
  4. その過程はある主体に属する

*以下、かなり主観的なまとめ方になります。以下では4のある過程がある主体に属するとは一体どういうことなのかについての論考と、融合された精神を擁護するするための議論が展開されるのですが、この両者が入り組んだ形で展開していて、かなり整理・解釈しながら読まないといけませんでした。

所有者性の問題(the problem of ownership)

体内に含まれていること、統合されていること

ある過程がある主体の体内に含まれているということは、その過程がその主体のものであるということの必要条件でも十分条件でもない。人工透析を受けている患者さんにとって、人工透析機の中で起きている過程は体外のものであるが、しかしこの過程はその患者さんの過程であると思われる。これは必要条件であることを否定する例であるが、似たような例を考えて十分条件であることを否定することもできる。

ではある過程がある主体のものであるとはどういうことなのかをどう考えればよいのか。それは機能主義がいうところの統合によって、であろう。人間のする様々な認知はある種のネットワークを形成していると考えることができる。このネットワークは因果関係および合理的一貫性という関係によって結ばれている。このネットワークの中に、ある過程が「ちゃんと」した位置付けを持っていること、これが統合されているということである。では統合されているとはどういうことなのだろうか。

パーソナルな認知とサブパーソナルな認知

認知の過程にはパーソナルのものとサブパーソナルなものがある。これはデカルト的な認知科学でも想定されていることである。

サブパーソナルな認知は主体ではなくて、その後の情報処理過程に対してのみ新たに情報を利用可能にする。となるとサブパーソナルな過程がある主体に属するというときに、その情報処理過程が誰に属しているのかということが問題になる。

ここでいうパーソンとは、外的な世界の変化に気づいて自分の行動を変えることができる存在というくらいの意味である。したがって、パーソナルな過程がなければそれは認知がないのと同じ。ということは、サブパーソナルな認知が認知であることはパーソナルな認知過程があるからこそ可能になる。サブパーソナルな過程が認知であるためには、それがパーソナルな認知過程の役に立つものでないといけない(=サブパーソナルな過程が認知ネットワークに統合されているということの意味)。ということでパーソナルな過程がある主体に属するというのはどういうことなのかを考えることにする。

認知は我々のする活動である

パーソナルな過程がある主体に属するのはどういうことなのかを考える際に、認知は我々の行う行為であることを出発点にするのがよい。そうすると我々の行う認知が我々のものであるというのは、我々がその認知の内容を我々が認識している時である、と言えそう。これを認識論的行為者性と呼ぶ。しかし、この行為者性というのは、実はより基本的なものから派生したものだからだ。そのより基本的なものとは、ハイデガーが言うかもしれないところの本来的な(primordial)な行為者性のことである。

我々が何かある行為をある道具を使って行っている時に、その行為がつつがなく行われている場合には、我々はその道具を意識していない。というよりむしろ我々の精神的な過程ですらも意識されておらず、むしろ我々は自分の達成したいことに向かっている状態(directedness)になっている。この時の、我々が透明になってしまっている状態こそが本来的な意味では行為者性なのである。認知の内容を意識していることから出発して行為者性について考えるのは誤っているのだ。

以下では、この本来的な行為者性とは何か、そして身体化された精神と拡張された精神とを機能主義を迂回して融合させるにはどうすればよいのか、の二点について、志向性について考えることでアプローチしていく。

世界を暴露する活動としての志向性(intentionality as revealing activity) 

意識はすべて何かに関する意識である。志向性という言葉は意識が何かに向けられていることを指す。

意識が何かに向けられた時、それを可能にしている意識がすでになければならない。例えばテーブルの上にあるりんごに私が意識を向ける時、その前の段階でりんごに意識を向けることを可能にするような形でテーブルを含んだ部屋全体に対して意識が向けられていないといけない(そういう意味だと私は理解しました)。しかしりんごへ意識が向けられる時、これを可能にする意識は意識されることがない。このように、意識されることがないが、ある意識を可能にするような意識を超越論的な意識と呼ぶ。

超越論的意識は排除されることがない。超越論的意識に意識を向けられたとしても、それを可能にするさらなる超越論的意識が存在することになるからである。このような志向性の特徴を指して、排除することのできない志向的な核、と呼ぶ。そしてこの核は世界を暴露する活動なのである。

所有者性の問題の解決

志向性は世界を暴露する活動であるということが確認できると、所有者性の問題はあとは簡単。暴露とは常に誰か(もしくは何か)に対する暴露である。もしある過程が世界を私に対して暴露していれば、それは私の過程である言えるのである。(こんな単純なことを言いたいがためにこんなに長い議論してきたのかよ、という印象)。しかしこれによって、滑りやすい坂による批判にこたえることができる。例えば望遠鏡の中で起こっているプロセスは、認知であるための十分条件のうち1~3を満たしてしまう。しかしこのプロセスはいつでも認知的であるわけではない。このプロセスによって私に情報が利用可能になっている限りにおいてのみ、このプロセスは認知的になるのだ。

融合された精神の擁護

超越論的な意識のおかげで志向的な経験が可能になっているとした時、超越論的な意識は二つの仕方で世界を暴露していると考えることができる。それは①論理的に十分な条件を与えることによって、もしくは②因果的に十分な条件を与えることによって、の二つである。前者は意識の内容、後者は意識の入れ物(vehicle)に関する。いま融合された問題について考える際には後者の問題が関係するので、後者の観点から考える。つまり、ある対象に関する意識は、因果的には何によって超越論的に可能になっているのだろうか。

盲人が杖を使って世界の認識をしている場面を考えてみる。彼は杖によってなぜこの世界に関する認識ができているのだろうか。それは杖や杖を持つ手・腕があるからである。杖を使って世界を認識している時、盲人にはその杖の存在やそれを持つ腕は意識されていない。意識は世界に向いている。この特徴を指して、志向性は腕や杖に浸透し、世界に達している(traveling through)と言うこととする。志向性は世界の暴露であるが、これがなぜ可能になるかというと、志向性が腕や杖に浸透し、世界にまで到達することができているからである。むしろ世界に到達しなければ、志向性は世界を暴露することはできない。こうして、腕や杖があることで、世界の暴露は因果的な意味で超越論的に可能になっている。そしてこの時、腕や杖も志向性の実現を可能にしているという点で、意識の構成物の一つなのである。

感想

  • あるプロセスが認知的であるための十分条件としてそれが誰かに所有されていることを挙げなければならないであろうという問題を提起している点、そして機能主義ではなくて(つまりClarkとは違った方向性で)現象学における議論を取り入れて融合された精神の擁護をしている点が面白い。彼自身もそこが面白いところだよーという感じで書いている。
  • 彼の書き方だと認知の印として4つの十分条件をあげることで、1~4のすべての批判に堪えているという感じだが、私にはあまりそうには見えない。認知の印をあげたことで応えることができているのは4のみである。特に2に応えることができていないのはかなり痛手だと思われる。しかし、「因果的な意味での十分条件を与えることで、ある意識状態を可能にしているものは意識の一部である」、という観点から攻めることで、1と2に応えることができている。そして両者の組み合わせで、3に応えている。なんにせよ、精神をamalgamateすることには成功しているように見える。
  • これに基づいて認知科学をするためにはどうしたらいんでしょう。あまりうまく想像ができない。