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【簡単な書評7】 情動とは魔法による世界の変化である。Sketch for a Theory of the Emotions (Sartre, 1939=1962)

英訳されたものを読みました。翻訳で分かりづらかった部分は原著を参照しました。

Sketch for a Theory of the Emotions

Sketch for a Theory of the Emotions

 

 原著はこちら。

Esquisse D'Une Theorie DES Emotions

Esquisse D'Une Theorie DES Emotions

 

 

現象学、心理学、現象学的心理学

心理学は事実を扱う。事実とは研究上今まで出会ったことのないものであるから、他のものから切り離されたものとなる。心理学で情動を扱うと情動も事実として扱うことになる。つまり情動と他の心理的な現象は何の本質も共有していないことになる。したがって情動は偶然的なものであることになる。この偶然的なものの集積から人間の本性を見出そうと心理学は考えているが、偶然をいくら集めたところで本質にはたどり着けない。

心理学のこうした限界を認識して、フッサール現象学を始めた。心理学が扱う事実は人間が世界に対して行う反応である。ということは人間とは何か、世界とは何かをまず明らかにしなければならない。では人間や世界の根源とは何か。それは現象学的還元によって到達できる超越論的意識である。しかしこれらの概念はまだ産まれたばかりで、まだ到底詳細なものになっていない。そのため、この本では情動に関する現象学的心理学を行う。

心理学は情動を事実として、つまり他のものからは切り離されたものとして情動を扱おうとした。これは情動から志向性を奪うことである。しかし現象学では、意識とはすべて何かに関する意識であるということを前提とする。情動もある種の意識状態である以上、情動にも志向性はある。つまり情動は何かを指示しているのである。そのようなものとして情動を扱い、情動が何を指示しているのかを明らかにするのが情動の現象学的心理学である。

古典的な理論

ジェームズの理論

ジェームズは情動に2種類の経験を認めた。生理学的現象と意識状態である。そして意識状態はこの生理学的現象に関する意識だとした。ジェームズの批判者は、情動の意識に生理学的現象には還元できないものを見出した。また、情動の経験として語られる生理学的現象は無秩序状態(disorder)であると考えられているが、しかし情動には秩序がある(organized)であるということをどう説明できるのか、という問題も残った。

ジャネの理論

ジャネはこのことを念頭に置いて、自分の情動の理論を作った。彼は観察できるもののみに限定して注目し、情動に二つの経験を認めた。行為と生理学的な変化である。彼によれば情動は適応的でない行為である。何かしたいこと、もしくはしなければならないことがあるのに、それができない場合を想定してみよう。この心理的なエネルギーは適応的な行動とは異なる方向で発散される。これが不適応な行動であり、そして情動である。彼の理論はこのようなものだ。

彼の理論のまずいところは機械論的に情動という行為を説明しようとしたことである。ある行為が不適応的な行為を呼ばれるためには意識の介入がなければならない。しかし彼の説明の中には意識の介在がない。彼がいう不適応な行為とはむしろ、機械的に生み出された行為の欠如と呼ばれるべきであろう。

しかし彼の理論の中で良い部分もある。それは情動を合目的性の観点から説明しようとしてからである。彼はあるところでは、適応的な行為が行えないがために、情動の行為が取られると説明している。彼はこのような合目的性に基づく説明と機械論的な説明とは自由に行き来してしまっていたのがよくない。

ゲシュタルト心理学

ゲシュタルト心理学はジャネの理論とは違って、機械論的に情動という行為を説明しようとしない。彼らはむしろ、我々が情動という行為に出るとき、我々は自ら選択してその劣った行為に及んでいるのである、と説明する。彼らの理論はこの点で優れている。しかし彼らの理論には意識が欠けている。私(サルトル)には、やりたいことがどうあがいてもできないという状態から情動という行為への移行が、意識なしには不可能であるように思えてならないのである。

精神分析

精神分析学は初めて心理学的な現象に志向性があることを強調した。この理論によれば、意識上の出来事は超自我によって抑圧された欲求が象徴的に実現したものであるということになる。つまり意識は無意識を志向しているということである。 ここで重要なことは意識が志向しているものは意識されえないということである。意識は志向性を持っていることになるが、この意識の志向性は外部から与えられたものだということだ。しかし現象学的心理学はそうは考えない。現象学的心理学は意識の中を見る。意識の中に志向されているものがある。

情動に関する現象学的心理学の概要

行為によって作られるある特定の世界

我々がある行為をするとき、体の動きは意識されてはいない。しかしその行為の目標は意識されている。こういった目標は、蓋然性しかない世界の中で可能性として確実な層を作る(ここがどういうことなのか実はまだわかってない)。この層が我々に行為を要請をしてくるのである。こういった意味で、この行為は世界に備わった性質としては意識されている。こうして我々の行為や目的と相関する形で、ドイツ語で呼ばれるところのUmwelltができあがる。

情動とは世界を魔法によって変えることである

Umwelltにおいて、ある目的が特定の行為によって達成されるべきものとして現れる。それはその行為を意識に要請してくるのだが、ある場合にはその実現が難しいことがある。このとき心理的な緊張状態が生まれる。この緊張状態から免れるために、意識は自分の状態を変えて、もともとあったUmwellt(=目的と手段の関係によってできている世界)を変えてしまうのである。もともとあった目的と手段の関係が決定されていたものではなくて、魔法によって決まっていた関係であったかのように、この関係は変更されるのである。

具体例を出そう。消極的な恐怖(passive fear)の例を考えてみる。獰猛な野獣が自分に向かってきた。ここで私が気を失ってしまったとしよう。このとき、野獣を見るにつけ、私の足は震え、心臓の鼓動は弱くなり、顔色も悪くなるであろう。この失神という行為は一見すると全く合目的性がないように見える。しかし、このとき意識は迫り来る野獣という脅威を力の及ぶ限りで消し去ったのである。近づいてくる野獣を目の前にして、何もできなくなった意識によって、身体の状態に変化が及ぶ。変化後の状態にある身体が失神という行為に及ぶことによって、その恐怖の対象を消しているのである。

このように情動とは、生理学的な変化を伴った身体が世界に新しい意味づけを与えるために行う行為なのである。

世界が魔法の構造を露わにすることもある

上の理論は、ある種の恐怖や驚きを説明できない。それは、例えば苦悶に歪む表情が急に外から窓に押し付けられたときに感じる恐怖である。この恐怖において私の身体はなんら行為をしていない。しかしこの種類の情動も実は同様に説明することができる。

時に世界の方が目的と手段のつながりとは異なる構造を意識に対して露わにすることがある。この構造は魔法の構造と言える。上の例で言えば、窓に押し付けられた顔は、私の身体と直接的な関係にある。その顔の意味を我々は身体を用いて構成し、その意味を生きる。しかしこの意味は世界から押し付けられた意味である。この意味を構成した行為はもはや我々のものではなく、むしろその顔を持った人の表情や動きの表現なのである。

情動は無秩序な状態なのではない

 ということで、意識は二つの仕方で世界ー内ー存在する。

一つは、道具連関の世界である。この世界で、人が何かをしたいと思ったら、この連関を構成している要素の一つに働きかけるしかない。この世界全体を直接ガラッと変えることはできない。

二つ目は、このような道具連関とは違った世界である。つまり道具のように使うことができない世界である。世界にあるものが直接意識に働きかけてくる。そして意識も直接世界に対抗しようとしている。この世界は直接的な方法によって、その全体を変えることによってしか変化させることができない。この世界が魔法の世界である。情動とは意識が世界ー内ー存在を解釈する一つの仕方であって、何か無秩序な状態ではないのである。

結論

この理論には限界がある。情緒的であれるような人間の本性を前提としているからである。これは現象学的心理学を行ったから。現象学であれば、人間の本性をアプリオリに記述した上で、そこから情動の記述に進むであろう。 

まだよくわかっていないところ 

 「魔法」の意味がよくわかっていない。原著ではune synthèse irrationnelle de spontanéité et de passivitéなのですが、一体何のことやらよくわかっていない。目的・手段の関係とは違う関係であることはわかっているのですが、それくらいの理解しかできていない。

あとは反省されていない行為がどのようなものであるか、についてのサルトルの特徴づけがまだよく呑み込めていないところがある。行為をする際にはその目的があって、その目的が世界の可能性として確実なものとなると言っているのだが、可能性として確実なものというのは一体何のことなのかがよくわかっていない。目標とその手段によって世界のある層が作られる、とだけ言ってくれればわかる気がするのだが。