英語がわかってしまう、ということ。

英語を勉強し始めると面白い体験をするようになる。

それは某塾ではスラスラ感と呼ばれる体験である。

 

ある英語の長文を初めて読むと、いろいろなところで引っかかってスムーズには読めない。それは単語や熟語の知識が足りないことが原因であったり、英文の構造を把握する力が不足していることが原因であったりするであろう。

 

しかし、そのような原因を排除して、つまり知識不足を補い、構文を把握した後で、その長文を何度も何度も繰り返し音読してみると、どうだろう。ある瞬間にそれまで感じていた引っかかり感が消え失せ、英語を読む端からその英文の意味が理解できるようになるのである。これがスラスラ感と呼ばれているものだ。

 

このスラスラ感を一つの長文で獲得できたら、次の長文に移る。そしてその長文についてもスラスラ感を体得できるまで音読をする。このような練習を繰り返すと、いつしか初めて読む英語の文もスラスラ感を持ってして読むことができるようになる。ここまできたら、かなり自分の英語の力に自信が出てくる。資格試験でも点数が取れるようになってくる。

 

この頃にはたくさんの人が呼ぶ「英語の感覚」が体得されているだろう。私が問題にしたいのはこの「英語の感覚」である。私の体験では、この感覚を持つ人は、英語がわかる人から英語がわかってしまう人に変貌してしまう危険性を持つ。すなわち、自分の持つ英語の感覚に頼って、こういう人たちは本当はわかっていない英文をわかっているかのように錯覚してしまうのである。

 

私はブログで英語に関する記事を書いている人のみを念頭において言っているのではない。専門書を英語から日本語に翻訳するような学者においてさえ、この現象は起きてしまう。英語を読むことが仕事の一部であり、専門書を読むためにその能力を磨いてきた人にでさえ、わかった気になってしまうという現象は起こっている。

 

一例を挙げよう。

ai-no-coffee-rumba.hatenablog.com

上の記事でもあげている例であるが、ハッキングのThe Taming of Chanceという本に以下のような一節がある。

Farr devised an apt word for what he was doing - nosmetry, i.e. "measuring" using a nosology. The very word reminds us that new classifications and new enumerations are inseparable. It also made counting sound more scientific, for what, in those days, was more scientific than measuring? (pp.53-54)

 この部分は翻訳版では以下のように訳されている。

ファーは自分の仕事にぴったりの、「疾病分類測定学(疾病分類学を用いて「測定」すること)」という用語を発案した。この言葉そのものが、新しい分類法と新しい<数え上げ>の方法とが一体であることを教えてくれる。また、当時この上なく科学的だと思われた測定という行為と合体させることで、数えることに、よりいっそう科学的な響きを持たせた。(pp.77-78)

元になっている英文の最後の部分、つまりfor what, in those days, was more scientific than measuring?の部分が問題とされるべき箇所である。

詳しくは上にあげておいた記事を参照していただきたいのだが、このforは接続詞で「というのも〜だからだ」という意味である。what以下は修辞疑問(いわゆる反語)である。それにもかかわらず、翻訳ではこの二つの事実を無視した訳がなされてしまっている。

 

接続詞のforが修辞疑問文とともに使われるのは実はそこまで稀なことではない。このことを知らないとしても、forの後に疑問文が来ていることがわかれば(そして、一冊の英語の本を翻訳できるような人ならばそれくらい見抜く能力はあるに決まっているはずだが)、このforは接続詞で「というのも〜だからだ」と訳されるべきであり、〜の部分に入るのがそのままの疑問文ではおかしなことになるから、修辞疑問だと解釈するという道筋が見えておかしくないはずだ。

 

それにもかかわらず、誤訳が起きている。

 

私にはこの原因が「英語の感覚」に頼った結果であると思えてならない。この感覚に頼った結果、わかった気になってしまったのである。

 

私はこのような事例を大学院に入って以来いくつか目にしている。そして、なんだか放っておけない気がした。だから、英語の誤訳を見つけたら、それを正す記事をいくつか書いてきた。やがて悪いことをしているような気になったから、もう誤訳指摘の記事を書くことはしばらくやめていたのだが、そうであれ、誤訳を目にすることが多い。そしてやはりなんだか放っておけない気がする。だからやっぱり誤訳を指摘する記事を書くことにした。シリーズとしての英語誤訳指摘の記事を再開する。

 

私も何か英語の感覚と呼べそうなものを持っているようだ。そしてこの感覚とやらに頼っている自分に出会うことがしばしばある。したがって私にもこの誤りを犯す危険性がある。私が間違っていたら教えてもらいたい。そのような形で、英語をわかった気にならないように、お互いに指摘しあうようなことができれば、願ってもないことである。

 

今CarrのWhat Is History?を読んでいる。近いうちにこの翻訳に関する記事を挙げたい。

 

例としてあげた一節の引用元はこちら。

The Taming of Chance (Ideas in Context)

The Taming of Chance (Ideas in Context)

 

 

偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命

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